2024/01/22「みよ!みよ!」

 

先日たまたま調べものをしていて

とある禅語を見つけました。

 

「看看臘月尽」(みよ みよ ろうげつ つく)

 

「臘月」というのは、旧暦で十二月のことだそうです。

(ちょうど今時期のことですね)

 

ざっくりとした意味合いは

「ぼけーっとしてると、すぐ12月も終わんぞ」

という感じなのですが(笑)、

 

わたしはこの、「看」の字が2つあるってのが印象的だなぁと思いました。

 

 

「みる」。

 

現代で一般的に使うのは

「見る」

ですが、、

 

「看る」

というのは、よりより注意して〝みる〟こと。

じっくりみまもるようなニュアンスが含まれていますね。

(看病、看護、とかね。)

 

よりじっくり、年の終わり目を看て過ごしなさいよ、と。

 

忙しいときほど、焦って、そわそわして、

めまぐるしくすぎていく日常を

気にもとめず過ごしてしまうものですが

 

そういう日常の中に、

見過ごしてはいけないものが含まれていて

 

知らないうちに、誰かを傷つけていたりとか

違和感があるのにスルーしたりとか

伝えなきゃいけないことを飲み込んでしまったりとか

 

そういう、日々の些細な瞬間を

 

看よ!

看よ!

 

と、言われてる気がします。

 

 

 

 

わたしがシロフクコーヒーに入った頃、

当時店長だったこがさんから最初に教わったのが

 

1、空間に〝貸し〟をつくれ

2、自分が発する〝音〟をきけ

3、とにかく〝みろ〟

 

ということでした。

 

(1と2はまたどこかで話すとして)

「みる」というのは

言ってしまえば簡単なものですが

実際にやるにはとても奥深きことで、、

 

見る、看る、観る、視る、診る・・・・

 

コーヒーも、人も、モノも、空間も

ただぼんやりと眺めるのは「みる」ではなく

あらゆる角度から、立体的に、みつづけないと

自分の血肉にはなりません。

 

 

とはいえ、

こがさんから、コーヒーの淹れ方を教わったときも

自分なりには「みて」、覚えたつもりが

じゃあ、みた通りにやってみて、と言われ

実際にやってみたら

「あれ、ここどうやってたっけ・・・」

と、結局何もみれてないことを悟るのは

日常茶飯事でした。

 

 

うっかり目を離して

見続けることができずに

ドリンクの作成をミスってしまったこと

 

見届けることができずに

お客様へご迷惑をかけてしまったこと

 

見守ることができずに

後輩スタッフをちゃんと育てられなかったこと

 

 

みてたつもり、が

ただ、眺めてただけ、になってたり

ただ、視界に入ってただけ、になってたり

ああ

わたしって、何もみてなかったんだって

その浅はかさを突きつけられて。

「見習い」以前からのスタートでした。

 

 

そうやって「みる」修行をずーっと続けた先で

ふと気づいたのは

わたしは、目の前にあるコーヒーを通して、

世界をみている、ということでした。

 

このコーヒー豆がわたしの手にやってくるまでの

長い長い旅路と

豆たちが生まれ育った土地の記憶をさかのぼれば

それは人類の歴史につながっていて

 

そのはるか遠くから続く歴史の一端に、わたしがいて

コーヒーを淹れるという行為が

自分と世界がつながるきっかけを作ってくれたということに

感動を覚えた日がありました

(伝わるかな、うまく言葉にできないのだけど)

 

 

こうやって、人も、モノも、空間も、みないといけないなって思いました。

 

表面的な部分を眺めるだけでは決してみえないものを、みていく。

 

わたしという存在もまた、

誰かがみてくれて

誰かがみまもってくれて

生きてきたのだから

わたしもまた、そんな眼差しを、

全人類に向けられるような人でありたいと思います。