ありあまる自由は、実は不自由である。

 

一日なんも予定無くて家で過ごしたことある人はわかると思うけど、「時間がいくらでもある」と思うほど、逆になにも進まなくなったりする。

 

わたしは、会社員のときにこのブログをはじめたのだけど

「会社の仕事」という1日の絶対的縛りがあったことで、逆に

「いかにスキマ時間でブログを書くか」

という視点が身についた。

 

ほんの5分も無駄にしない有意義な時間の使い方を考え抜き、15分余ればカフェに駆け込んでブログを書いていたし、駅のホームで待つときも、信号待ちのときも、つねに文章を書くことをしていた。

し、実際会社を退職するまでの間、毎日ブログを更新していた。

 

で、

「もっとブログに時間割きたい!!」

と思って独立して、一日中自由に過ごせるようになった直後から、毎日更新をしなくなった。笑

 

「いつでも書ける」

と思うほど、ちょっと怠惰に過ごしたり、スキマ時間を有意義に使わず

後回しにしたりして結局やらずに終わる…みたいな過ごし方をして、よく自己嫌悪に陥っていた。(遠い目)

 

こういうときに、

「ありあまる自由は、実は不自由だ」

と気づかされる。

なにもかも選択できるがゆえに、優先順位を見失えば途端になにも決断できなくなる。

 

わたしは強靭で絶対不動のブレない意志をもつほど出来た人間ではないので、

ある意味強制的に優先順位が決まる”縛り”があるほうが、実は助かったりする。

 

「適度な不自由の中にこそ、自由があるのかもしれない」

と。

 

私に限らず、聖人君子以外の大半の人は、無尽蔵に自由すぎるとどんどん堕落するので、
自分である程度縛りをつくったり、制約のある環境下で動けると、ある意味一番「自由」なのかもしれない。

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執筆屋あんちゃ
執筆屋です。意識高い人生哲学から下ネタまで幅広く。 大阪の珈琲屋「シロフクコーヒー」のバリスタ▶︎系列店「ゆにわマートオンライン」に最近異動しました。最近はよくインスタにいます。

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