2019年8月24日の日記

人生三度目の腎盂腎炎にかかった。

初めてかかったときにつらすぎて「もう一生こんな状態になりたくない」と誓ったはずなのに、どうやらわたしは簡単にその痛みも教訓も忘れてしまうようだ。

 

思考とはやっかいなもので、こうして寝込んでいる間にも頭の中は嫌でも動く。

だから、スマホ片手に頭の中も吐き出して健康的な脳にしようと思う。

 

 

病床に伏すと、自分がいかに人に迷惑をかけ、そして支えられ、力をもらっているかがわかる。

 

仕事をキャンセルし、仲間がどうにか穴埋めしてくれた。

恋人が看病してくれた。

親や友人から心配の連絡がきた。

 

ありとあらゆる周りの人に助けてもらった。

 

でもこれって病気のときだからとかじゃなく、いつもかもしれない。

自分が気づかないだけで、たくさんの周りの人が自分のために動いてくれている瞬間があるかもしれない。

 

そしてこれはわたしに限らず、すべての人に言えるかもしれない。

 

 

多くのビジネス書では「人にギブ&ギブをしろ」なんて書いてるけど、

正直人は生きてるだけでテイクしてる(誰かから与えてもらっている)んだから、自分もお返しするのは当たり前のことだ。

そういうのを見失うと、人はどんどん傲慢になっていくのだろうなと考えてたら熱が上がってきそうだったので一旦寝ることにする。

 

 

 

寒気で目が覚めた。

 

このまま腎臓が弱くなって、機能しなくなって、透析とか必要になって、なんなら死ぬかも、と考えた。

この病にかかって、腎臓がいかに全身にわたって重要な役割を果たしているかを知った。

だからこそ、少しだけ死を意識した。

 

もし近いうちに死ぬというのがわかったとしたら、今と同じ生活をするだろうか?

というよくある問いについてかんがえてみたら、答えはたぶんイエスだ。

 

まだまだやりきれていないことはたくさんあるし、もっと全力出せるよなとか思うところもあるけど

基本的にわたしの人生はすでに幸せであることを知っているので、たとえ数ヶ月後に死ぬとしてもいまと同じ日常を過ごすだろう。

 

とかいって、いざ現実に突きつけられたらそんなカッコいいこと言ってらんないだろうな、と思いつつ・・・

夕飯のお米とお味噌汁を本当に噛み締めながら味わって食べた。

 

 

どうせわたしは、二度と味わいたくない痛みも、ひどく実感した教訓もすぐに忘れる生き物だ。

常に意識するのは本当に至難の業である。

だからこそ、たとえ忘れたとしてもいかに早くその記憶と感覚を思い出せるか、そこから身の振り方を修正していけるかが、大事なのかもしれない。

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執筆屋あんちゃ
執筆屋です。意識高い人生哲学から下ネタまで幅広く。 大阪の珈琲屋「シロフクコーヒー」のバリスタ▶︎系列店「ゆにわマートオンライン」に最近異動しました。最近はよくインスタにいます。

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