「会社、辞めます」
新卒で入社した会社を、丸2年で辞めた。2016年の春、25歳。ちょうど1年前のことだ。
会社を辞めたときにわたしがもっていたものは
・大学1年生のときに買ったぶあついノートPC
・1ヶ月分の給料ほどの貯金
・今後への期待と臆病な心
これくらいしかなかった。
ブログを軸に独立すると決断した1年前の春、死にものぐるいで毎日を過ごした。
房総半島の田舎・金谷との出会い
ようやく仕事が軌道にのってきた2016年の夏頃、twitterで声をかけられ、千葉の房総半島の先っぽのほう、浜金谷にあるコワーキングスペース「まるも」へ向かった。
その日はちょうどジビエ肉のBBQで、集まった人たちと汗を流しながらワイワイと肉を食べた。
ここは、ど田舎というにはどこか目新しさがあって、でもまわりを見渡すと海と山に囲まれていて、なんだか不思議な場所だった。
疲れたらすぐ裏にある海辺で寝そべり、元気がでたらまた仕事して、スーパーのおばちゃんも気さくで、若い移住者も多く、刺激的であたたかい場所だった。
そしてこの出会いを機に、わたしはしばらくこのコワーキングスペースで「ブログ運営」についていろんな人に講座を開いていくことになった。
人前にでることが怖くて仕方なかったわたしの決意
コワーキングスペース「まるも」では隔月で「フリーランスになりたい人を養成する講座」を開催している。(”田舎フリーランス養成講座”と呼んでいる)
社会人、会社をやめた人、学生、様々なバックグラウンドを抱えた人がここに集まる。
お互いを全く知らないまま集まった10人程の人たちが、1ヶ月間学びと生活を共にする。
わたしはその人たちに向けてブログ運営やライティングのやり方を教えていくのだけど、ひとつだけ懸念点があった。
わたしは「人前で話すことが極度に苦手」だった。
小学5年生で転校したとき、前に立つ自分に集中するみんなの視線がなぜかすごく怖くて、トラウマになった。
新卒で会社に入社したとき、営業に配属され取引先で全くプレゼンができなかったときに、二重のトラウマになった。
ブログを始めてから少しは自分に自信をもてるようになったけど、人前で話すときはいつも「人の目を気にして生きていた昔のわたし」が顔をのぞかせた。
***
今まで自分が人になにかを教える経験なんてほとんどしたことがなかった。(大学の頃バイトで新人の人にマニュアルの説明をしたくらい)
というかなにも得意なものがなかったわたしに、教えられることなんてないと思っていた。
でも今は、「あんちゃの話が聞きたい」と言ってくれる人たちがいた。
「あんちゃみたいにブログで発信したい」と熱く語ってくれる人がいた。
だからわたしも、ここで壁を越えなければならないと思った。
わたしに教えられることがあるのなら、誰かの役にたつことがあるのなら、自分のトラウマは克服すべきだと。
わたしは房総半島の先っぽで、ひそかな決意をした。
失敗してもだれも責めない環境
もちろんいざ講座をするとなった当初、うまく喋れるはずはなかった。
パワポ資料はがっちり作り込んで、流れを把握して、どうやってしゃべるか考えたけれどもやっぱり人前に立つとたとえ10人程度の人だったとしても頭が真っ白になって、言葉がつまってしまう。
みんなお金を払って、時間をかけてわたしの話を聞きにきているのにこんなんじゃだめだと自分を責めた。
でも、受講生の人たちも、同じ講師として活動している人たちも、だれもわたしを責めなかった。
そのとき気づいたのは、ここは「講師も参加者も自分の壁を乗り越える場所」だということだ。
誰かが失敗しても、誰もその失敗をとがめない。
誰かが落ち込んでたら、「じゃあこうしてみたら?」と声をかけてくれる人がいる。
そしたらその落ち込んでた人が立ち直って、また他の失敗して落ち込んだ人に「じゃあこうしてみたら?」と声をかける。
そんな場所だった。
他者と向き合うことで自分と向き合い、自分と向き合うことでまた他者と向き合う。
わたしは人になにかを教えることで、自分にできること、できないこと、自分が本当にやりたいこと、やりたくないことに向き合うことができた。
そしてまた自分に向き合うことで、わたしが人に伝えられること、聞いてほしいことを発信できるようになった。
失敗したことで気づけたことが本当にたくさんあったのだ。
得たものは、「人生を共有する尊さ」だった
ある受講生が話していた。
「ここにはイヤイヤ仕事している人がだれもいない」と。
言われてみれば確かにそうだった。
葛藤や不安を抱えながら取り組む人はいても、「嫌だ」と言いながら仕事する人は本当に一人もいない。
みんな自分が実現したいことのために、真剣に取り組んでいる。
誰に強制されるでもなく、やらされているわけでもなく、自分がやりたいからやっている。
わたしが会社員だったときはどうだろう。
金曜日の夜が待ち遠しくて、日曜日の夜には絶望的な気分になって、月曜日には「あーだるい」と同僚と言い合っていた。
でもそれが社会人だと思っていたし、まわりもだるそうに仕事をしていたからそれが普通だと思っていた。
でも、ここは違った。
みんな自分のために、本気で取り組んでいる。
そんな環境でわたしは人生を過ごすことができて本当に幸せだな、と思う。
また別の受講生がこう話した。
「どこにも居場所がなかった自分がはじめて”ここにいたい”と思えた場所だ」と。
いままで彼がどんな人生を送ってきたのかわたしはほとんど知らないが、それでもここにいる仲間と笑顔で日々過ごしているのを横で見ていたとき、胸にこみ上げるものがあった。
わたしもその瞬間に立ち会えて、本当に良かったと思う。
***
わたしがここで得たものは、「人生を共有できる”尊さ”」だ。
楽しいこと、悲しいこと、悔しいこと、嬉しいこと、その人生の瞬間を誰かと共有する尊さを知った。
わたしは、どこにも居場所がなく誰とも人生を共有できない冷たい世界を知っている。
就職で上京して、誰ともつながりがなく家と会社の往復の毎日を送っていたときにただひたすら不安で、貪るように一人でできる娯楽を消費していた頃。
「これが社会人なのか。これが人生なのか」とため息をついていたあのときのわたしに、いまのわたしの姿を見せてあげたい。
自分がここにいたいと思える場所で、他者と人生を共有できることがどれだけ幸せなことかを教えてあげたい。
自分が実現させたいことのために何かに没頭する姿は美しいし
思うように行動できず悔しくて葛藤にもがく姿も、美しい。
そして誰かがくじけたときに他の誰かがそっと寄り添ってあげる姿も、尊い、と思う。
そんな瞬間に立ち会えただけでわたしは良い人生の瞬間を過ごしたと思うし、大事なものを得た。
何者にもなれるし、何者にもなれなくていい
人は、いつも何者かになりたいと願っている。
お金持ちになりたい、
アーティストになりたい、
永遠の旅人になりたい、
自信に溢れた人間になりたいと。
でも何者にもなれなくて悲しむ人もいる。
自分には何もない、
なにもできない、
自信がない、
自分はあの人のようにはなれないと。
わたしは、どちらでもいいと思う。
お金持ちになれなくても、自信がなくても、なにもできなくても、自分を卑下しても、そんな自分でも愛おしいひとつの命だ。
むしろ葛藤と不安のない人生なんて退屈じゃないか。
もがいて迷っているその過程こそ人生の醍醐味じゃないか。
あなたが何者だろうと、何者にもなれなくとも、あなたは美しいよ、と。
わたしはこの場所でそんなことを教わった気がする。
教える立場のわたしが、その何倍もみんなからたくさんのことを教わった。
わたしと関わってくれたみなさん、心から感謝します。ありがとう。