「自分が今やっていることに何の意味があるんだろう?」という問いについて

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「わたしがいまやっていることに何の意味があるのだろう、何の価値があるのだろう」

そう思った経験はないだろうか。

 

ふとしたそういう無力感、虚無感に襲われることはだれしも経験があるはずだ。

 

 

だれも自分の貴重な命と時間を「やっても意味が無いこと」に使いたいと思う人はそうそういない。

だからこそ、ふと自分がいま取り組んでいることがもしかしたらなんの成果も生み出さないかもしれない、と思ってしまったときには果てしのない不安と悲しみの底に突き落とされるような感覚になる。

 

だけど、自分のやっていることにどんな意味があるのかなんて、そんなすぐにわかることではない。

 

 

 

たとえばわたしが中学生の頃にハマっていた漫画や小説だって、インターネットで自分のサイトを作ることだって、なんの意味があるのかと言ったらただ娯楽として時間をつぶしていたにすぎない。

 

でも10年以上経った今、その経験はついに価値を見出した。

あの経験がなければ自分で文章を書こうという気持ちにもならなかっただろうし、それをインターネットに載せて発信しようとも思わなかったかもしれない。

 

これだけの月日が経ってやっとあのとき自分がやっていたことの大きな価値を知ったのだ。

 

 

そう思えば、これまで自分がやってきた「一見意味の無い思考や行動」も、もしかしたら何年後かに価値を見出すかもしれない。

 

 

高校時代の修行のような部活に苦しんだ日々だって、

大学時代の堕落したなんの夢も大義も持たなかった日々だって、

会社員時代にたくさん葛藤して会社に行く足がすくんだ日々だって、

全部あとになってから「なんだかんだあの日々に感じていたことは全部わたしの血肉になっているじゃないか」と気づくことができた。

 

苦しくてしんどい部活を毎日こなしたからこそ継続の大切さを学んだし、

大学時代になんの夢も持てなかったからこそ、同じような境遇の学生の気持ちに寄り添うことができるし、

会社員の頃にたくさん葛藤したからこそ、それを原動力にして自立した働き方ができるようになったからだ、

 

 

今やっていることがすぐ何かの役に立つとか、大きな価値を発揮するとかはないかもしれない。自分で今取り組んでいることの意義を見出せないこともあるかもしれない。

人は行為の結果をすぐに確認したがるし、すぐに成果がでるものを好む。がんばってもなかなか目に見える成果がでないと、冒頭の無力感がじわじわと押し寄せてきてその波から逃げてしまう。

 

だけど今やっていることが全部点と点でつながる瞬間がくるのは3年後かもしれないし、20年後かもしれないのだ。

 

 

それならば、「やる意味あんのかな」と今この瞬間に頭をかかえるのは愚策であることに気づく。

意味を持たせるのは未来の自分かもしれないのだから。

一見意味のない行為が、数十年後の自分にとってかけがえのない大切な財産になっているかもしれないのだから。

 

 

もちろんどれだけ考えてもやり抜く必要のないことにも出会うだろう。

そこで方向転換に舵を切ろうとも、そのまま粘り続けるのも、どちらにせよ何年か後には大きな価値を見出すかもしれない。

 

 

そう考えると自分が取り組むあらゆることに「意味があるか無いか」という問いをすること自体がくだらないもので、意味というのはいつだって自分が見出すものであるという結論に行き着く。

今の時点では意味を見出せないことも、何年か経って環境が変わったり思考が成熟することによって見出せることは増えるはずだ。

 

 

そう考えると、自分がどんなことに取り組もうとも少しはかろやかな気持ちを持って向き合えるような気がするのである。

 

 

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