失敗ばかりの人生を送るほど、他人の失敗にも寛容になれる。

この前スーパーのレジに並んでいたとき、ちょうど「研修中」と書かれた名札をつけた男の人が必死にレジを打っていた。

列が結構並んでいたから焦っていたのかわからないけど、わたしの前の人の会計中に打ち込みでミスをしてしまったらしく、先輩に対応をお願いしていた。

 

わたしも学生時代の飲食店のバイトでお会計のミスは何度もしたし、慣れない中でのバタバタは本当に大変なのを知っているので、

なんだか昔の記憶を呼び起こしながらも、気長に解決するのを待っていた。

 

 

わたしの人生は、立ち上がれなくなるような大きな挫折は少ないけれど、たくさんの失敗をしてきた。

友人に傷つける言葉を浴びせてしまったり、約束をサボったり、お母さんがせっかく作ってくれたお弁当をこっそり捨ててしまったことだってある。

バイトや会社員時代の仕事、フリーランスになってからの仕事だって、何度ミスしてまわりに迷惑をかけたかわからない。

 

些細なことを引きずる性格ではないのが救いだけど、それでも27年間大なり小なり無数の失敗をした。

まったくそれを誇るわけではないけど、これだけ失敗ばかりの人生でまわりに助けられて生きてきたので、他の人が失敗したときは絶対に責めないようにしている。

 

一生懸命やった結果うまくいかないことなんて、当たり前にあるからだ。

 

他人のミスを責めるほど、自分のミスも責めてしまう。

世の中には、誰かがミスしたときにひどく責め立てる人がいる。

確かに、誰かがミスしたことで自分に損失がきてしまうときは、責めたくなる気持ちもわからなくもない。

 

だけど、人の失敗を責めるほど、自分が失敗したときに苦しくなるのではないだろうか。

もしくは、失敗を恐れて何もできなくなってしまうのではないか。

 

相手に投げかけた言葉は、そのまま自分に返ってくる。

他人を責める人ほど自分を責めるし、失敗に厳しくなる。

 

だからどんどん失敗できない人生になり、それを恐れるあまり何もできなくなる可能性もある。

 

もちろん生命に関わる事態で失敗するのは許されないことかもしれないけど

ほんの日常の些細な場面での失敗も許されない人生は、果たして生きやすいだろうか。

 

生きている限り失敗しない人なんて存在しないのだから、だったら責めるよりも寄り添って、次のアクションを一緒に考える方が相手のためにも、自分のためにもベストなんじゃないだろうか?

 

人はみんな、「人生の研修中」である

以前アイルランドのカフェに行った時、店員さんがお皿を豪快に割ってしまったときがあった。

きっと日本だったら店員さんは申し訳なさそうに謝ると思うんだけど、アイルランドではお客さんが店員さんに「どんまい!」と笑いながら声をかけていた。

 

このときわたしは、こういう寛容さを持ちたいなと思ったし、日本にももう少しこういう空気があってもいいんじゃないかなと感じた。

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「研修中」と名札をつけたバイトの人が何かミスしたりすると多くの人は大目にみてくれるはずだ。

 

であれば、そもそも人間はみんな「人生の研修中」なのだから、どんな人に対しても全力で頑張ってやった結果ミスしてしまったことに対しては、大目に見れる心の余裕は持ちたいものである。

 

 

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執筆屋あんちゃ
執筆屋です。意識高い人生哲学から下ネタまで幅広く。 大阪の珈琲屋「シロフクコーヒー」のバリスタ▶︎系列店「ゆにわマートオンライン」に最近異動しました。最近はよくインスタにいます。

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